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アメリカ南部から西岸へ パレスチナのフリーダム・ライダーズに連帯して

【転載・転送歓迎】

In solidarity with Freedom Riders in Palestine
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京都の岡真理です。

自由と平等と人間の尊厳を求める闘いは普遍です。
その闘いの記憶は、歴史の地脈となって、時代を超え、国境を超え、
いつの時代、どこの国であれ、自由と平等のために闘う人々に繋がり、
その滋養となって、歴史の地表に湧きあがります。

明日、11月15日火曜日、パレスチナの若者たちが、西岸からエルサレムに向かう
ユダヤ人入植者専用のバスに乗り込みます。
50年前の1960年、公民権運動さなかのアメリカで、人種隔離政策に対する
抵抗として実践された、フリーダム・ライドの市民的不服従に倣ったものです。

当時のアメリカ南部では、黒人はバスの後部座席に隔離されていました。
しかし、占領下のパレスチナでは、パレスチナ人はそもそも、ユダヤ人専用バスに
乗ることさえ許されていません。そのバスに彼らは乗りこもうとしています。
入植者のバスに乗り込もうとすることは、入植者からの暴力を招き、殺されるかも
しれません。アメリカ南部で、白人との平等を求める黒人たちが、KKKによって
私刑に処せられていたように。
あるいはイスラエル軍に逮捕され、何カ月、何年も投獄されるかもしれません。

その危険を冒してなお、彼らはこの非暴力不服従の抵抗を実行しようとしています。
それによって、世界の関心を惹起し、イスラエルによるアパルトヘイトの実態を
世界に知らしめようとしています。
50年前、平等と尊厳を求めて立ち上がったアメリカ南部の黒人たちの勇気に
鼓舞されて、今、パレスチナで自らの自由と平等と尊厳を勝ち取るために。

アメリカの場合は、合衆国市民であるアフリカ系の人々が、公共交通機関
への平等のアクセスという、白人と平等の待遇を求めてフリーダム・ライドを
おこないました。しかし、パレスチナのフリーダム・ライドは、占領という
システムそのものに対する闘いです。

それは、凄惨な暴力をもたらすかもしれません。でも、自らの血を流すことなく、
自由を手に入れることなどできないということを、彼らは知っています。
どうか、明日、11月15日のパレスチナを注視してください。
そして、不正に抗し、自由と尊厳を求めるパレスチナの人々のその闘いに
連帯してください。

私には夢があります。

パレスチナで、エルサレムで、近い将来、幼いユダヤ人の少年少女が、
幼いパレスチナ人の少年少女と手をとりあって仲睦まじく暮らしていける日が
必ず来ると、そう私は信じています。
明日は、その私たちの夢を現実のものとするための、第1歩です。

参考 
http://palsolidarity.org/2011/11/palestinian-freedom-riders-to-ride-settler-
buses-to-jerusalem/
http://jewschool.com/2011/11/08/27266/from-the-american-south-to-the-west-ba
nk-a-freedom-rider-bears-witness-to-human-rights-in-israelpalestine/
http://www.alternativenews.org/english/index.php/topics/news/3888-freedom-ri
des
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京都新聞5月16日夕刊「現代のことば」

山羊と原爆

1928(昭和3年)、富山のさる旧家に男児が誕生した。
父親は帝国陸軍の将校。待望の長男だった。だが、
赤ん坊は衰弱しており、生き永らえそうに見えなかった。
父親は下男に赤ん坊を埋めるよう命じた。
下男は息のある赤ん坊を埋めるに忍びなく、
生きている間だけでもと、山羊の乳をやった。
この乳が赤ん坊の命をつないだ。

瀕死状態で生まれたのが嘘のように腕白な少年に成長した
長男は、父親と同じ道を歩むべく、広島の陸軍幼年学校に
入学した。皇国の大義を純粋に信じていた。
1945(昭和20)年8月、幼年学校を卒業して、どこかの街で
任官を待っていたとき、日本降伏の噂が伝わった。
彼は同志とともに、国民に徹底抗戦を呼びかけるビラを刷り、
飛行機で空から撤くことを画策するが、上官に見つかって
営倉に入れられる。営倉から出されたとき、部隊はすでに
解散していた。

除隊後、彼が向かったのは郷里ではなく広島だった。
彼にとって第二の故郷であるその街が新型爆弾で壊滅したと
聞いたからだ。当時の市内は民間人立ち入り禁止だったが、
軍関係者であった彼が街に入るのは難しくはなかった。
変わり果てた街を、彼は何日も彷徨い続けたという。

敗戦後、「アジアの解放」が帝国による侵略に過ぎなかった
ことを知り、彼は共産主義者となって、レッドパージの時代、
地下生活を送る。やがて業界紙の記者となり、結婚したのは
30を過ぎてからだった。子どもも生まれ、幸せな結婚生活も
束の間、1963年、彼は突然、肺癌を発症、余命半年と宣告され、
その3カ月後に亡くなった。2歳半の娘を遺して。35歳だった。
これが、私が父について知るすべてである。

自分がなぜ癌になったのかも、父は知らなかっただろう。
当時はまだ「入市被爆」などという言葉も存在しなかった。
だが、あの夏、17歳の彼は、残留放射能の中をたしかに
長時間、彷徨ったのだ。母校は爆心地のすぐ近くだった。
学校にいた1学年下の後輩たちはみな、原爆で亡くなったと
いう。廃墟となった街を彷徨いながら彼は、わずかな偶然で
自分が免れた運命がいかなるものであったのかを焦土の中で
幻視していたのだと思う。

このとき、彼の体内で時限爆弾が仕掛けられた(放射能によ
る晩発性障害、すなわち「ただちに健康に害があるわけではな
い」というのは、こういうことだ)。あのとき広島に行きさえ
しなければ、父が癌で死ぬこともなかった。しかし、「もし」
と言うなら、小さな命を隣れんだ下男が赤ん坊に山羊の乳を含
ませてくれなかったら、彼の人生そのものがなかったはずだ。

父の35年間という人生は、一人の心根の優しい人間と山羊の乳
が与えてくれた贈り物だ。1年早く生まれていれば、南洋に送
られ、戦死していただろう。1年遅ければ、原爆で死んでいた。
1年前でも後でもなく、あの年に父が生まれ、そして山羊の乳
と、放射能の晩発性障害の発症までの時差のおかげで、今、
私という人間が存在している。
(京都大学教授/現代アラブ文学)

占領下パレスチナにおける女性の人権侵害 報告書

みなさま、

京都の岡真理です。

2008‐09年のガザ攻撃のとき、アブデルワーヘド教授のガザ
からのメールをの翻訳を、TUP(Translators United for Peace、
平和をめざす翻訳者たち)の速報として配信していただきました。
そのご縁で、その後、わたくしもTUPのメンバーとして活動
しています。

すでにご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、TUPでは
西岸のラーマッラーに本部をおくNGO,WCLAC(女性の
ための法律相談センター)の2009年度版報告書を、シリーズ
「パレスチナの女性の声」と題し、今年1月3日より、6か月に
わたり、翻訳、速報化してきました。それが先日、15回をもって
完結いたしましたので、ここでご報告させていただきます。

同報告書は、イスラエルの占領によって、占領下の女性たちが
被る人権侵害に関し、19人の女性たちの聞き取り調査をおこない、
その証言をまとめたものです。
TUPのHPで読むことができます。http://www.tup-bulletin.org/

参考までに、同報告書の内容(目次)を以下にご紹介します。

[1](入植者による)暴力

[2] 移動の自由

[3] 居住権の侵害と引き離される家族

[4] 家屋破壊

[5] まとめと行動提案

いずれの項目にしても、すでに、パレスチナ内外のジャーナリスト
や活動家、NGOが、報告・報道していることですが、それらでは、
ほんの断片しか紹介されない当事者の声を、本報告書では詳細に
伝えると同時に、占領下の女性の人権侵害について包括的に紹介
している点が特徴です。

ぜひ、ご覧いただき、ご活用いただければ幸いです。

おか

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