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ジュリアノ・メル・ハミース追悼

みなさま、

京都の岡真理です。
すでに日本のメディアでも報じられていますが、ドキュメンタリー映画「アルナの子
どもたち」の監督、ジュリアノ・メル・ハミースさんが、4日、ジェニン難民キャン
プで武装集団によって射殺されました(享年53歳)。

ジュリアノさんは、京都ともご縁のあった方です。

ジュリアノさんは、ユダヤ人の女優アルナ・メルと、イスラエル共産党のリーダーの
一人であるパレスチナ人クリスチャン、サリーバ・ハミースの間に生まれ、年長じ
て、俳優となりました。
アルナは、著名な女優であると同時に、パレスチナ人の権利のために闘う活動家でも
ありました。
第1次インティファーダ(1988年~)のさなか、ユダヤ人のアルナは、占領下パレス
チナのヨルダン川西岸にあるジェニン難民キャンプを訪れ、イスラエル占領軍の暴力
によって抑圧されている子どもたちに、絵画や演劇などの芸術を教え、子どもたちに
自尊感情を育むことで、不正に対する怒りを芸術を通して表現する術を教えます。
ジュリアノもまた、ジェニンに通い、子どもたちに芝居を教えました。
それから10数年後、再び占領の暴力が軍の侵攻という形でジェニンを、そしてアルナ
の子どもたちを襲います。

ジュリアノは、第1次インティファーダさなかのジェニン難民キャンプでアルナと出
会い、その薫陶を受け、アルナを母として慕う子どもたちが、その10年後、第2次イ
ンティファーダでイスラエル軍との戦闘で短すぎる生を終えるまでをドキュメンタ
リー映画「アルナの子どもたち」にまとめました。

2005年10月、パレスチナの子どものキャンペーンが、「アルナの子どもたち」の日本
語版を制作し、上映に合わせて、ジュリアノ監督を日本に招聘しました。
東京では明治大学で上映後、ジュリアノ監督は森達也さんと対談されました。
その翌日、京都大学にお越しいただき、映画上映後、コリアNGOセンターの金光敏
さんと対談していただきました。
これが、京大における「シリーズ・パレスチナにおける共生の未来を考える」の記念
すべき第1回目でした。当日は160名の来場者があり、地下講義室は満員でした。

歴史的不正と抑圧と暴力のなかで生きるパレスチナ人の子どもたちに芸術を通して民
族としての自尊感情を育もうとしたアルナの取り組みとは、決して、パレスチナ・イ
スラエル紛争という特殊な政治的状況ゆえに生まれたものではありません。
それは、たとえば金光敏さんが日々、日本社会で生きる在日コリアンの子どもたちの
ために取り組まれていることでもあります。金光敏さんに対談相手をお願いしたの
は、そのためです。
パレスチナの問題はパレスチナや中東だけの問題ではなく、私たちが生きている、こ
の日本社会の問題でもあるのだということ、パレスチナの問題と東アジアの日本の問
題は歴史的な地脈でつながっているのだということを、ジュリアノ監督、在日の
方々、そして何よりも日本人の市民のみなさんに理解していただきたかったからで
す。

翌日の日曜日、京都観光をする予定でした。でも、金光敏さんとの出会いを通じて
「在日」の存在を知ったジュリアノさんに、ウトロのお話をすると、観光よりもぜひ
ウトロを見学したいと所望されました。その場で、「ウトロを守る会」の田川明子さ
んに連絡し、翌日の見学の手配をしていただきました。

宇治市にあるウトロは在日の集住地域です。戦時中、軍事飛行場建設の労働者たちを
住まわせた朝鮮人飯場が起源です。戦後長らく住民による「不法占拠」状態が続いて
いました。2005年段階では土地所有者による強制執行がいつ行われても不思議ではな
い状況でした(近年、住民による一部買い取りが実現し、安心して暮らせる街づくり
に向けて大きく前進しました)。

ウトロの広場で出会った80歳近い在日1世のハルモニは、「ブルドーザーが来ようと
何が来ようと、私たちはここを離れない、死んでもここにとどまる」とジュリアノに
語りました。その言葉を聞いたジュリアノは、「ジェニンで、難民のパレスチナ人の
母親たちから幾度も同じ言葉を聞きました。これこそが「ソムード」(抵抗)です。
ここ日本で、私たちと同じ闘いを闘っている者たちがいるのだと知ることは、私たち
を支え、励ましてくれます」と答えました。
映画「アルナの子どもたち」の中にも、イスラエル軍の総攻撃を目前にしたジェニン
難民キャンプで、母親が、「家が壊されたら、また建てれればいい。私たちは決して
逃げない」と語る場面があります。
「ソムード」とはアラビア語で「抵抗」のことですが、武器をもって闘う抵抗ではな
く、何があってもその場に踏みとどまってがんばる、不撓不屈の精神を意味します。
それを聞かれたウトロの方が、ぜひ、アラビア語でその言葉をウトロの家の壁に書い
てほしいと言って、ジュリアノにマジックを渡しました。
その家は、強制執行が行われたら、まっさきに取り壊されるはずの家です。

ジュリアノは1文字、1文字、確かめるように「ソ・ム・-・ド」と白い壁に書き記し
ました。
父親がパレスチナ人であるジュリアノはヘブライ語とアラビア語(パレスチナ方言)
のバイリンガルです。でも、ユダヤ人としてイスラエルの学校でヘブライ語で教育を
受けた彼は、アラビア語を話したり読むことはできても、書くことはそれほど得意で
はなかったようです。ジュリアノが書いた「ソムード」には綴りの間違いがありま
す。でも、私にはそれが、シオニストのユダヤ人であることを止め、「パレスチナ
人」であることを自ら選びとったジュリアノの署名のように思えます。

ジュリアノは母アルナの志を受け継ぎ、アルナの子どもたちの一人でありジェニンの
武装抵抗勢力のリーダーであったザカリア・ズベイディらとともに、ジェニン難民
キャンプに「自由劇場」を設立します。

度重なる脅迫にも屈せず(自由劇場は2度、放火されました)、ジュリアノは活動を
続けました。

しかし、4月4日、自由劇場の前で、車の中にいたジュリアノは、覆面をした一団に襲
われ、5発の銃弾をその身に受け、亡くなりました(4月5日付エルサレム・ポスト紙
によれば、パレスチナ自治政府は、ハマースのメンバーを、ジュリアノ暗殺関与の容
疑で逮捕したそうです)。



2005年10月、京都での上映会・シンポのあと、懇親会が終わったあとも、ジュリアノ
は河岸を変えた居酒屋で深夜の1時、2時まで、若い学生さんたちに囲まれて、お
しゃべりに付き合ってくれました。

そして翌日はウトロの見学。

ジュリアノが夕方、新幹線で京都を去るまで、私は京都での2日間をジュリアノとと
もに過ごすという幸運に恵まれました。

「若い頃はユダヤ人として生きてきたけれど、今はユダヤ人の中にいると孤独を感じ
るだけ。もう、ユダヤ人社会の中で生きようとは思わない」

「日本もそうだと思うけど「アルナの子どもたち」のようなドキュメンタリー映画
は、上映してくれる映画館があっても、レイトショーとかモーニングショーだけ。だ
から、チラシを1000枚作るとしたら、500枚は「いい映画だから必見」と宣伝
して、もう半分は、「シオニズムを否定するとんでもない作品だから、絶対に観ては
いけない」と書いて撒く。そうするとお客さんがいっぱい来る」

(ウトロで死にたいというハルモニに)「でも、人間にとっていちばんの幸せは、故
郷で死ぬことですよね」

(ユダヤ人である母アルナがアラビア語を流暢に話すことについて)「そりゃ、愛し
合って結婚した夫の言葉だからね」

(わたしに向かって)「きみはそうやって、種を撒いているんだね…」

ジェニンのパレスチナ自治政府代表は、「ジェニンの市民すべてがジュリアノの死を
悲しみ、この犯罪に憤っている。彼がこんな死に方をするなんて…」と語っていま
す。
こんなふうに殺されてよいはずがない。でも、同時に、思います。ジュリアノは、
ジェニンという「故郷」で、アルナを母とする兄弟たちがソムードを貫いたその地
で、彼もまた、ソムードを貫いて亡くなったのだと。

あれから6年、ウトロの家の壁にジュリアノがアラビア語で書いた「ソムード」の文
字が風雨にさらされ、消えてしまったとしても、ジュリアノがその生をもって貫いた
ソムードの意志を、私たちもまた、ここ東アジアの地で受け継いで生きていきたいと
思います。



2011年4月6日記

岡 真理

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